林雅広

・1950年4月16日、岐阜県中津川市で誕生

・岐阜大学教育学部地学科

  微化石(コノドント)の研究

・職歴

  小学校、中学校の教員(校長)

・好きな言葉 創意工夫 

・TV番組 

  カンブリア宮殿 プロフェッショナル

  人生の楽園 NHK将棋 

林啓子

・1954年8月30日、可児郡御嵩町で誕生

・岐阜大学教育学部社会科(哲学)

・職歴

 小学校講師 障害者授産施設(事務長)

・TV ためしてガッテン 朝ドラ「まんぷく」  


定年退職後、第二の人生は好きな農業で生きる

上記の原稿

「食える農業」の鍵は商品の魅力
     「甘くて美味しい栗」作りに挑む

 現在63歳。教職を定年退職し、妻と二人で栗と落花生を栽培しています。私が、農業に携わるようになったのは、50歳のころでした。父母が高齢になり農作業が徐々にできなくなってきたからです。畑に栗が200本ほど植えられていました。これが大変でした。栗は落ちたその日の内に収穫しなければ売り物になりません。仕事で遅く帰った時は、ヘッドランプをつけ、草の間に落ちている栗を拾い集めたこともありました。雨の日はカッパを着ての作業です。そんな風に収穫した栗が、早生はともかく、時期が進むにつれ値段が下がり、市場値が1kg200円になってしまいました。最低賃金にも遠く及びません。
 我が家の栗にも問題がありました。市場に並べてあるほかの農家の栗は我が家と比べてとても大きかったのです。頼りの父は、寝たきりで話が聞けません。隣の畑をまねて剪定したのですが、葉の緑は薄く、元気がありません。枯れてしまう栗も出てきました。
<多くの人に助けていただいた>
 転機は妻の退職でした。私が54歳の時、妻は長年勤めていた仕事を両親介護のために辞めました。土日以外の農作業は、妻の仕事となりました。妻は、農協が主催する「栗新規栽培チャレンジ塾」に通い始めました。ここで栗栽培の楽しさに引き込まれていったようです。学んだ栗栽培のイロハ、最新技術を、実地で教授してくれました。
 動き出した私達の様子を見て、何人もの方が畑に入ってきて教えてくださいました。接ぎ木の時期には、接ぎ木の道具を持って、剪定の時期には剪定の道具を持ってとふらりと寄ってくださいました。私達に何が必要かをよく見て手を差し伸べてくださったのです。私達も、栗栽培のベテラン、研究者のところを何回も訪ね教えを請いました。
 私達が、引き継いだ栗畑は、手入れが行き届かず荒れていました。家の周囲はともかく、畑の端は山に飲み込まれ、高さが10メートルにもなる木がたくさん生えていました。また、畑にはススキが侵入し、腰まである草を泳ぐように進むというような具合でした。父が植えた栗の木は、巨木化し、小さな栗が木の下にびっしり落ちてきます。
 「退職した年の秋にちゃんとした栗が収穫できるよう今から栗を植えていこう」と決めたのは55歳の秋でした。チェンソーを買い、木の伐採に取り掛かりました。抜根、深耕は、大型バックホーを持った業者の方にお願いしました。深耕により畑の表面に出た石をひたすら拾い集めました。見違えるほどいい畑になりました。
 栗の品種にはこだわりました。優れた品種と聞けば、取り寄せ、家族で「味、香り、粉質度」の3観点で味見し、順位をつけました。ずいぶん美味しい栗があることも分かってきました。どうせ作るなら、こういう味のいい栗を作って喜ばれたいと思いました。研究者から病害虫への抵抗性、味、品質のデータをもらいました。30品種の内から半分に絞り込みました。こうして、5年間で90アールの畑を開墾し、480本の栗を植えました。
 土日だけの農業でしたが、四季の移り変わりの中で流す汗は心地よく、開放感に満ちていました。農業技術は奥深く、日々新鮮で、発見、学びがありました。「第二の人生は農業」という思いは、ますます強くなっていきました。
  栗畑の整備は進みましたが、栗について知れば知るほど、経営面での心配が出てきました。ほかの農産物に比べて単位面積当たりの農業所得がとても低いのです。1ヘクタールの栗の売上げが、200万円ほどで、そこから諸経費を引くとあまり残りません。趣味ではなく「食える農業」にするには、付加価値をつけ、販路を工夫するしかないと考えました。保健所の指導を受け、加工設備のある農作業場が完成したのは59歳の春でした。
<苦言がきっかけで誕生した甘い栗>
  付加価値と言うことでは、思わぬ所で道が開けました。生栗で販売するより、焼き栗にした方が喜ばれると聞いて、焼き栗を作ってみました。鬼皮がパックリと口を開け、ホコホコした食感でした。試しに、農協直売場に出したところ、毎日5パックほど売れました。しかし、売行き好調は10日ほどで、売れ残る日が増えてきました。直売場を見に行った長男が「お父さん、家の焼き栗評判が悪いよ。焼き栗を手にとったお客さんに、ほかの人がその栗はまずいよと言っていた。」と言うのです。ショックでした。天津甘栗を食べ慣れたお客さんにとって日本栗の焼き栗は甘さが不足しているのでしょう。通信販売で注射器を取り寄せ、焼き上がった栗にオリゴ糖を注入してみました。ほんのり甘く、天津甘栗に対抗できそうな味になりました。しかし、これは、家族で試食しただけでした。何となくいんちき臭くて売る気にはなれなかったのです。 そんな時、ある雑誌で「栗を冷蔵すると糖度が上がる」という記事に出会いました。すぐに我が家の栗を研究所に送り、糖度と凍結点を調べてもらいました。栗の冷蔵と糖度上昇に関する実験データも送ってもらいました。理論的には間違いないと分かりましたが、問題は冷蔵庫です。庫内の温度むらがなく、温度変化が少ない構造が必要です。業者を探し、3坪の冷蔵庫が完成したのは、59歳の10月でした。早速、我が家の栗を冷蔵してみました。糖度計で測定すると、日に日に糖度が上昇していきました。最初は10度だった糖度が、20日後には20度を超え、更に上がっていきます。生栗を試食した人は、「ナシみたい」「砂糖が入っているの」と驚きました。これで作った焼き栗は文句なしに甘くておいしく仕上がりました。栗ご飯、蒸し栗でも、栗本来の甘さ、香りが引き立ち、今までとは比べものになりません。
 翌年秋には、氷温協会で品質が認められ「氷温食品」として認定されました。和栗では日本で最初でした。私達は、この甘くて美味しい栗に「スイート中津川栗・あまろん」と名付け、焼き栗だけでなく生栗としても販売を始めました。
<販売先を求めて歩いた中山道>
  いくらおいしくても、販売できなければ話になりません。退職した年の春、中津川市の観光地図を広げ、妻と中山道沿いの店を一軒ずつ訪ねて回りました。焼き栗を販売してくださる店を探したのです。了解を得た店が7軒になりました。秋には、毎朝4時に起き、栗を焼き、夫婦で手分けして東西15kmの範囲に点在する土産物店、スーパー、菓子店に向かいました。1年目は、2,000パックほど販売できました。
  次は身近な市民への宣伝です。15,000枚のチラシを作って新聞折り込みをしました。売出し初日、駐車場の心配は杞憂でした。一日待って、たった3人のお客さんしかなかったのです。しかし、「周りに栗畑はたくさんあるけど、市民に売ってくださる農家はどこか分からなかったので良かった。」という声に我が家の役割、可能性を感じました。栗の一大生産地ではあるが、ほとんどが和菓子屋さんとの契約農家で、個人向けに生栗を売っている人は極めてまれだったのです。その内、お客さんがお客さんを連れてきてくださり、たった4台しか止められない駐車場ですが、時には満車になる日も出てきました。
<全国へ送り出す>
 市内での栗の需要は限られています。全国で私の栗を必要とする人に情報を届け、販売する方法はないか関係者を訪ね歩きました。運良く、地域の農産物をインターネットを通して販売している業者さんに出会い、全国に栗の販売ができるようになりました。
 値段が格別安いわけでなく、実績もない「はやし農場」の栗は、2週間ほど全然売れませんでした。やっと、買ってくださった方のレビューが載りました。「もう、今年最高といっても良いかもしれません!最強に甘い!本当に。まるで砂糖で味付けたかのような甘さ!栗御飯にしたんですが、もう、本当においしくってたまりません。ごちそう様でした。」と。泣けました。開拓の苦労、夜遅くまでかかり、一粒ずつ手に取り選りすぐった栗の値打ちを分かってくださったのです。
 その後注文は増え、北海道から沖縄の42都道府県に栗を発送しました。多少高くても、本当に美味しい栗、高品質な栗を求めている方は、日本全国にみえるのです。
<販売力強化に秘策はなし>
 この2年間、7トンの栗を販売できました。しかし、これからも同じように売れるかは分かりません。「売れ残ったららどうしよう。」との不安はいつも脳裏にあります。
 購入はお客さんが決めることです。私ができることは、栗の魅力、価値を磨きあげることだと思っています。買ってくださった方が「また食べたい」と思わない限り次はないでしょう。「磨き」のヒントは辛口な感想の中にもあります。「舌に渋みが残る」「渋皮の離れが悪い」などという率直な御感想を「天の声」と思い一つ一つ解決してきました。ここが面白いところ、頑張りどころです。
<地域の夢、生活を載せて広がる取組>
 たくさん来てくださるお客さんを見て、地域の農産物が持ち込まれるようになりました。栗はもちろんですが、ニホンミツバチの蜜、ギンナン、サツマイモ等といろいろです。我が家も2年目から、落花生の焙煎加工と販売を始めました。こだわりのある農産物の相乗効果でお客さんも増えています。夫婦二人ではとても手が回わらず、知り合いの退職者にお願いし、手伝いに来てもらっています。
  「はやし農場」が、市民に開かれるだけでなく、地域の農家、退職仲間にも開かれ、共に豊かになれたら、第二の人生はもっと面白くなりそうです。8年前に夫婦で植えた栗は緑濃くたわわに実をつけるようになりました。